2006年春、愛知県の三河湾に面した広大な敷地に、次代を担うリーダーの育成を目的とする、まったく新しい形態の学園が開学した。それが、海陽中等教育学校である。
イギリスのパブリックスクールや、アメリカのプレップスクールのような全寮制を特徴とする同校だが、生徒たちが生活する「ハウス」は、一般的な「寄宿舎」や「寮」のイメージとは大きく異なっている。そこは、単に生徒が寝起きをする場所ではなく、教員資格を持つ「ハウスマスター」や企業から派遣された「フロアマスター」たちと一緒になって生活することによって、自立心や協調性を磨く教育の場でもあるのだ。
「ハウスマスターもフロアマスターも、生徒たちと24時間寝食を共にします。勉強だけでなく、あらゆることに対して日々、生徒たちの成長をサポートしていくのが役目。立ち居振る舞いも含めて、自分の持てる力をすべて注いで、生徒たちと向き合う必要があります」
そう語るのは、同校の事務長を務める篠﨑高雅だ。財務や人事から広報宣伝といった学校運営のインフラ整備に尽力する一方で、開学以来、現職に至るまでの4年間をハウスマスターとして過ごしてきた。
24時間体制で生徒たちを見守るハウスマスターは、まさに父親であり、ときには母親のような存在でもある。生徒のためを思って厳しく接するときもあるが、誰よりも彼らの身を案じ、目配りを欠かさない。進路相談に乗ることはもちろん、体調を崩した生徒を付きっきりで看病することもある。
「事務長になった今でも、生徒と話すことは多いんですよ」
そう言って見せてくれたスケジュール表には、生徒との食事の約束が記されていた。篠﨑が生徒と強い信頼関係を保ち続けている証しだ。
ハウスマスターとして学園に招かれるまで、篠﨑は国際金融の最前線で活躍するバンカー(銀行員)だった。
新卒で日本長期信用銀行(通称長銀、現・新生銀行)に入行したころは、バブル経済の黎明期。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉がもてはやされ、「強い円」を武器に日本の銀行はどんどん世界に進出していった。「金融工学」を用いたデリバティブ取引※1など新たな金融商品が誕生し、銀行の業務が多様化・国際化していった時代である。
1986年に米マサチューセッツ工科大学でMBA※2を取得した篠﨑は、そこで得た最新の金融知識をもとに、日本ではまだ着手したばかりのデリバティブ取引を手掛けていくこととなる。その後も、米投資銀行への出向、行内でのリスクマネジメント管理の統括など次々と大きな仕事を任され、バンカーとしてのキャリアを着実に積み重ねていった。
しかし、そんな篠﨑を待ち構えていたのは過酷な現実だった。1998年3月、長銀は経営不振により、1800億円あまりの公的資金が投入されることになる。月刊誌で経営危機が報じられると、長銀は坂道を転げ落ちるように破綻へと追い込まれていく。
篠﨑は、「自分ができることは何か」をとことん考え抜いて、長銀最後の半年間を駆け抜けた。毎日、気がつけば日付が変わっていた。その結果、特別公的管理銀行として国有化されることになったものの、日本全体の金融危機にまで至ることはなかった。
「どうにか、長銀発の世界金融危機を引き起こさずに済んだ・・・・・・」篠﨑は、安堵のため息をついた。「失われた10年」と呼ばれる不景気時代の引き金にはなったが、大きな混乱は回避された。その舞台裏には篠﨑をはじめとするバンカーたちの、想像を絶する努力があったのである。
※1 デリバティブ取引……「デリバティブ」は「派生的」という意味。金融商品(株式・債券・為替など)を直接売買するのではなく、その売買権利や交換権を取引すること。
※2 MBA……Master of BusinessAdministration (経営管理学修士)
長銀破綻後、金融ベンチャー企業の設立などに携わってきた篠﨑は、一度だけ思い切って9カ月の充電期間を設けたことがある。バンカーとしてのキャリアは十分に積んできた。どこへ行っても仕事をこなせる自信はある。日本の金融の新しい基礎づくりに邁進してきた自負もある。だがその一方で、これから自分が向かうべき道はどこなのか、心と正面から向き合って考えたくなった。そこで、これまでの仕事で培った人脈を生かして、さまざまなフィールドで活躍するビジネスパーソンに会って話を聞いてまわった。
「そうしているうちに、もっと人の幸せに直接関わることのできる仕事をしてみたくなったんです」徐々に芽生えた思いを突き詰めていくに従って、篠﨑の関心は金融から「教育」へと向かっていった。そんなときに声を掛けてくれたのが海陽学園だった。当時、篠﨑は再び銀行に職を得ていたが、海陽学園との出会いを「運命的なものがあった」と振り返る。
ハウスマスターを置く学校というのは、国内では前例がない。それでも「躊躇はなかった」と篠﨑は言い切る。
「何より、新しいことにチャレンジしたかったんです」
思えばバンカー時代も常にフロンティアとして、まだ誰も手掛けていない事業をいくつも成功に導いてきた。自分だけの力では実現できないけれども、進取の気性に富んだ人たちと一緒であれば、困難なことも必ず成し遂げられる。生き馬の目を抜く金融業界での経験を通じて、篠﨑はそう確信していたのだ。
もちろん、まったくのゼロから学校を立ち上げることは、至難の技だった。限られた準備期間の中で、篠﨑たちは生徒募集に走り、企業への支援を募り、ハウス運営のルール作りに奔走した。メンバーの中には欧米の学校へ視察に行った者もいる。スタッフ同士で何度もミーティングを繰り返し、生徒たちを万全の態勢で迎え入れることができるように努めた。
「4月に初めての1年生が入学してきたときは、その前日からずいぶん緊張したものです」海陽学園の船出の日を、篠﨑はそう述懐する。
だが、本番は生徒たちが入学してからだった。彼らはまだ小学校を出たばかり。一人ひとりの個性を把握しながら、日々の面倒を見ていくのは骨が折れた。それでも生徒たちが、少しずつ成長して「変わったな」と思えたときの喜びはひとしおだ。
篠﨑が生徒に話す内容は、自らの実体験によるところも多い。例えばネクタイの結び方や、ビジネスシーンでの食事のマナーなども、入学したての1年生のときから伝えていく。国際社会で活躍する人材になるためには、まず万国共通のルールを身につけた人格者として相手に認められなければ、同じ土俵には立てないからだ。
また、勉強優先のキャリア教育ばかりではなく、ハウスのまとめ役として頑張っている生徒もきちんと評価したいと言う。学力ばかりではなく、生徒の個性を十分に見据えた視点からアドバイスができるのも、寝食を共にしながら、生徒との絆を深めているからこそだ。
そんな篠﨑にリーダーとして必要な資質を訊くと「先憂後楽」という言葉が返ってきた。
「リーダーとは常に周りに気を配り、ピンチの際には先頭に立って向かっていく人のこと。生徒たちにはその心掛けを忘れないでほしいんです」
今、篠﨑はハウスマスターの仕事を離れ、事務長として学校運営全体をマネジメントする立場にある。そこで改めて感じているのは「お金の重み」だという。同校は、授業料のほか賛同する企業から負託された資金で成り立っている。バンカー時代に、億単位の取引をいくつも担当してきた篠﨑だが、そうしたお金とはまた違う意義を感じ取っているのだ。
「資金の多くは、皆さんが苦労して汗水流して働いた結果生み出されたもの。それを、次代のリーダーである子どもたちのために使ってくださいと仰っていただいたものなんです。そうした思いを大切にした経営をしなければいけないと痛感しています」
終始穏やかだった篠﨑の表情が、きりりと引き締まった。
(文中敬称略)