帝国ホテル営業部でセールスマネージャーを務める仲川礼二は、松本のこんな言葉が仕事の原動力になっている。
「頼むぞ」
営業部長の松本は決して、「こうしなければだめだ」という頭ごなしの指示はしない。逆に、「お前はどうしたいんだ?」と必ず部下の意見に耳を傾け、最後には「じゃあそれでいこう、頼むな」と背中を押してくれる。「何としても自分がやるんだ」という当事者意識が生まれる瞬間だ。松本の一言一言に、日々励まされる。
お客様の前ではもちろん、部下の前でも常に物腰柔らかで穏やかな松本が、唯一険しい表情になるときがある。営業部という部署とは切っても切り離せない、業績に関する会議の後だ。営業成績に「精一杯頑張った」「努力している」という精神論は通用しない。数字は何より正直である。
そんな会議後の松本の背中を見つめながら、仲川を含む部下たちは「何とか力になりたい、自分の力をもっとブラッシュアップさせなければ」と歯がゆい気持ちを明日の仕事への決意に変える。
それにしても不思議なのは、いつも絶妙なタイミングで松本が励ましの声を掛けてくれることだ。事実、仲川と松本の間には支配人、課長、次長…と何人もの上席が存在する。しかしいつも松本は、「ここぞ」というときに例の「頼むぞ」を発するのだ。「頼む」の一言でも、受け手の状態とタイミングによっては大きなプレッシャーになる。
「それほど、部下である私たちをよく見てくれているんだと思います」
得意先への挨拶に同行した際、松本から学んだ大切なことがある。宴会の御礼の挨拶で訪れた時のこと。松本は、相手にこの上なく清々しい印象を与えるのだ。その理由は物腰柔らかな表情と穏やかな口調だけではない。仲川はピンと来た。
「余計なことを、何一つ言わないんです。普通の営業マンなら、御礼で伺った際に『ところで、こんなサービスもあります。次回にぜひいかがでしょうか』と付け加えたくなってしまいます。でも松本は違った。その宴会に対しての御礼のみなんです。どんなに親しい間柄でも、決して押しつけがましい提案はしない」
さらには、最も難しいシチュエーションである、〝お詫び.の訪問でのこと。会合に出席した顧客の宿泊の際にトラブルがあった。営業マンの失敗ではなくとも、ホテルにおけるどんな些細なミスもお客様にとっては「ホテル」の責任。お客様と直接対峙する営業マンの彼らが「ホテル」の顔であり、お詫びするのも当然彼らなのである。そんなときも、松本はこうだ。
「ミスの経緯をくどくどと説明するのではなく、単刀直入に誠心誠意のお詫びをするんです。もちろん言い訳なんて、するはずがありません」
そんな松本にホテルパーソンとしての極意を学び、自身も多くの部下を持つ仲川にも、人材育成におけるモットーがある。
「とにかく、基礎を固めさせてあげようということです。部下の中には、新入社員はもちろんですが、他部署から異動してくるスタッフもいます。そんなとき、『前は○○の部署にいたから△△はわかるよね』と大切な情報伝達を省くようなプロセスは、営業という仕事において致命傷になりかねないんです。お客様にとっては自分がホテルの窓口になる。それなのに、商品知識が十分でなかったり、ホテル全体のことを把握していなかったとします。『ちょっとそれはわかりません』では、お客様の信頼は到底得られません」
3年後、自分がどうなっていたいかを仲川に尋ねると、瞬時にこんな言葉が返された。
「営業職を究め、営業部の管理職に就きたいですね。まだまだ行動力が足りないかな、と思っています。もっとお客様と会って、もっといろいろなお話を伺ってお客様が求めているものをすべてくみ上げる。それがお客様に喜んでいただくための一番の方法であることは、どんな時代でも変わらない。松本の言葉です」
そこに、次代を担う頼もしいホテルパーソンの笑顔があった。