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医師
日本大学 医学部
瀧澤医院 院長
瀧澤 一樹 (たきざわ いちき)氏

2010年03月東進タイムズ掲載

自分を必要としている人がいる限りすべてを賭けて患者の力になりたい

新型インフルエンザから地域住民を守れ

 2009年秋、世界中で猛威をふるった新型インフルエンザの発症者数が、日本ではピークを迎えていた。検査や診察に駆け込む患者数は日を追うごとに膨らみ、どの病院も外来はパンク状態。特に患者の多い小児科医師たちの疲労は、限界を超えていた。

 そんな中、武蔵野赤十字病院から武蔵野市医師会に異例の協力の要請が出された。

 「中核の当病院だけでは、とても手が回らない。地域の医療機関に応援を頼みたいと言われ『何でも力になる』とすぐに協力を申し出ました。」

 そう語るのは瀧澤医院の院長・瀧澤一樹だ。要請を受けて、瀧澤医院を含む地域の医療機関が輪番制で休日・祝日も診療。新型インフルエンザから「地域住民を守ってみせる」と強い意志を持った医師たちのチームプレーで、約1000名の患者に対応。感染のピーク時を見事に乗り切った。

 現代の日本における医療現場では、医療事故、医師不足、病院のリスク管理など問題が山積みだ。瀧澤はそんな日本の将来に危機感を抱き、地域医療の充実に力を尽くす医師の一人である。

 「そんな状況でも、決して改善の道が無いわけではありません。診療所と診療所、診療所と病院、病院と病院が連携し、それぞれの役割を全うすることで、多くの患者さんに必要な医療を施すことができるはずです」

 東京都のモデル事業にも選ばれ、武蔵野市医師会では、10の病院と139の各科診療所の連携システムにより内部情報を公開・共有。疾患に応じて適切な医療機関をスピーディに予約・紹介できる体制が整備されている。

 「まずは私たちが、ベストな地域医療の姿を実現し、それが日本全体に広がっていけばいいと考えています。」

不自由な身体で診療を続けた父

 瀧澤は、開業医である父の背中を見て育った。物心ついたときには、「自分も将来は医者になるのだろう」と漠然と思っていた。それが使命感に変わったのは、小5のときである。

 いつも元気で働き者の父が、脳出血で倒れた。幸運にも一命はとりとめたものの、半身に麻痺が残った。つまり、常識で考えれば診察室にはもう戻れない。しかし瀧澤の父は医院を閉めなかった。

 「自分を頼りにしてくれる人がいる。自分を必要としている人がいる。少なくともそのあいだは、医療活動を続けたい。」

 地域の医療を守るのは自分だという確固たる意志が、麻痺した半身を支えていた。

 リハビリを経て、診療を再開。聴診器を当てたり、薬の調合をしたりといった実質的な作業は看護師が担い、父は病名や治療法について判断を下すことに専念。さらに、医局の計らいでパートタイムの勤務医を派遣してもらい、瀧澤医院は以前と変わらず患者を受け入れ続けた。

 「自分たちを必要とする患者さんがいるから、父も母も頑張れたのだと思います。多くの人に支えられて20年以上も診察室で医師としての職務を全うしました。」

二度の失敗が教えてくれたこと

 高校生になると、医学部進学という道がにわかに現実味を帯びてきた。

 「特に成績が飛び抜けて良かったわけではなく、おまけにベビーブーム世代で競争率の面でも困難な時代。怯まなかったと言えば嘘になります」

 それでも瀧澤は逃げずに懸命に努力を重ねたが、医学部は全滅。しかし、医学部編入が可能な日本大学獣医学部医進コース(当時)に合格できた。そこに在籍しながら、二度目の医学部受験のために大学の講義の後、予備校へ通った。そして翌年、見事医学部合格を果たした。

 しかし医学部受験以上に大きな試練だったのは、医師国家試験だ。出題範囲は、基礎医学・臨床医学の多岐に渡り、参考書やテキスト丸ごと何冊分もの知識を総動員して挑む文字通りの難関国家試験だ。瀧澤は、医学部の先輩や仲間から情報を集めて自分なりに分析し、ひたすら過去問や例題集を解いた。

 あっという間に試験本番当日がやってきた。持ち前の集中力で、筆記試験は難なく合格。しかし、勝利の女神は簡単には微笑んでくれなかった。二次試験で待ち受けていたのは、口頭試問つきの面接。ノックして部屋に入る。緊張で心臓の鼓動が否応なく早まる。すると試験官からいきなり、ノーマークだった病気の疾患について問われてしまった。心臓の鼓動がますます大きくなり、頭は真っ白になった。口の中が乾いて舌も回らず、その場で何と答えたかは覚えていない。何が起こったかわからないまま、部屋を後にした。結果はもちろん、不合格。

 雪辱をはらすべく挑んだ二度目の国家試験。「どこにも穴はない」と断言できるくらいに細かい分野まで徹底的にチェックし、見事に合格できた。

 大学受験も国家試験も、一度目は不合格。そんな瀧澤が、身をもって確かだと思うことがある。

 「失敗は、今よりも必ず前進するという証しなんです。失敗した経験があったから、もっと前に進もうと努力することができました。

「非定型性の貧血」を患った同僚医師としての覚悟が決まった瞬間

 国家試験合格後は研修医として大学病院の医局に在籍。血液・免疫学に関する研究と並行して、臨床経験を積んでいった。

 忘れられない患者がいる。20代女性、白血病。自分と同じ新人医師だった。

 今でこそ、病名は真っ先に患者本人に伝えるものという意識が高まっているが、当時は病名告知の考え方が確立されていなかった。治らないとわかっている病気を宣告された患者の心情を、最優先してのことだった。

 白血病の場合、表向きの病名は「非定型性の貧血」と患者に伝えられていた。彼女の場合も、通常の患者と同じくそう告げた。しかし、相手は同業の医師だ。症状で、自分の体に何が起こっているかは容易に想像がつく。「非定型性の貧血」が何を指すのかも。

 「それなのに、彼女は終始冷静でした。慌てたり、取り乱したりすることもなかった。」

 動揺を隠して淡々と治療の方法を確認していく彼女の様子に、瀧澤は胸が締めつけられた。「非定型性の貧血」と正面から闘う覚悟を決めた、彼女の心の内を想った。これから病状がどのように進行していくのか、どのくらい助かる確率があるのか、現時点での医療技術がどのくらい通用するのか、全部わかっているはずだ。しかし彼女は、患者であると同時に医師であることを自覚して、完璧な姿勢を保っていた。自分と同じく希望に満ちた未来が待っているはずだった彼女の無念さを、痛いほど肌で感じた。

 今、瀧澤は振り返る。「医師という仕事の重みを知り、自分にできるすべてを賭けて患者の力になるという覚悟が定まった瞬間でした。」

医師は、病気ではなく患者と向き合うもの

 医局に約10年間在籍した後、父から瀧澤医院を引き継いだ。父の時代の開業医といえば、聴診器一つで診察を行うのが主流だったが、医学は日進月歩であり、最新の治療方法を現実に沿うように活用していくのも大切な仕事だ。

 「私が医局にいたころから血液生化学検査が急速に普及し始め、さらに今は画像による情報を重視する時代になっています」

 反面、父の時代から変わらないこともある。かかりつけ医・家庭医としての立場である。患者本人だけでなく、患者を取り巻く家庭環境を把握した上で的確な判断を下せる医師という意味だ。月二回の訪問医療や往診に出向くのも、その信念があるからだ。医院の待合受付で倒れた高齢の女性に自ら付き添って救急車に乗り、患者の家族に知らせ、救急病院の医師へ引き渡したこともある。

 「私が父から学んだ一番大事なことは"医師は、病気ではなく人間と向き合っている"ということです。患者さんの父への信頼は揺るぎないものでした。現在でも、私が父の息子であるという安心感から来てくださる患者さんもいらっしゃいます。」

 一人の開業医として目の前の患者さんを、また武蔵野市医師会の会長として地域全体の医療を守る多忙な日々。そんな、瀧澤を駆り立てるもの。それは父と同じだ。自分を必要としている人がいる限り、自分にできるすべてを賭けて患者の力になるという志と使命感だ。

※文中敬称略。所属・役職等は取材当時のものです。
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